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落語とポリフォニー

例えば小三治さんの『かぼちゃ屋』を聴いていると、ストーリーとしての文言の中に「もっとまともな人間になってくれ」という、おじさんの与太に対する熱いきもちを感じることができる。そのとき、この噺は単なる与太の滑稽譚なのではなく、与太の新生を祈るおじさんの人生訓でもある、と聴くことができる。もちろんそのようなことが表立つように話されるなんて野暮なことを小三治さんがするわけはなく、あくまでそれは聴く側の自由裁量によるのだけど、一度そう思い立ってみると、今度はどちらかと言うと、おじさんのきもちが大きく聴者のこころの中に広がっていることに気づく。このように、ストーリーとは独立した、ある意味の表出がポリフォニックに確立していく過程としての落語は、ひょっとすると、小三治さん独特のものなのかもしれない。試しに一之輔さんの『かぼちゃ屋』をいくら聴いてみても、そのような事態は起こらない。

同じく小三治さんの『意地くらべ』を聴いてみるといい。「男ってえやつは、一度決めたことは、ぐーっと、一に押し二に押し三に押し、四に押し五に押し六に押し、どこまでも押し続けなきゃいけない。引いたら引いた方が負けになる」「今までこうして生きてきたけど、意地を張り通すってえことはずいぶん損をすることもあります。泣きをみることもありますよ。でもねえ、だからって引っ込めるわけにはいかないんです。なにがなんでもやり通さなきゃあ、腹がおさまらない」なんていうセリフを聴いていると、小三治さん、これ、あなたのことなんじゃないの?なんて勘ぐりたくなるくらいに、意地っ張りな男の生き方の主張が前面に出ているように思える。

わたしは秋風亭てい朝さんの主催する落語教室に通っていて、てい朝さんを言わば、師匠と仰いでいる立場なんだけど、同じく秋風亭門下の生徒(弟子?)さんに、秋風亭あい朝という方がいる。定例の稽古の折り、この方の『金明竹』を聴いて、わたしは言わば、ぶっ飛んだことがある。それはひとつのストーリーを追って楽しむ落語なんかじゃなく、あちらこちらから、いろんなセリフがつぶてのようにバンバン飛んできて、それが時に重なり合い時に追い越し合い、声音も調子も速度も、様々な要素が原色のまま繰り出されていくその様は、まるで落語のキュビズムを見ている聴いているようで、すさまじい圧倒を感じ、そのままぶっ飛ばされちゃった。

言わば違う意味、かもしれないけど、とにかくすごい落語だった。もちろん師匠からは酷評されたんじゃないかな、と記憶しているけど、わたし的には、これこそわたしの目指す落語じゃないかしら、と思ったぐらいすばらしい落語で、それを聴いてわたしは総毛立ってしまった。わたしの目指す落語の少なくともひとつの方向性をそこに見た思いがした。そこには、ポリフォニーを通り越したデジタル的な多様性・多義性があり、和色じゃなくて西洋的な色使いを駆使した明るい点描絵画のような革新性があった。

あい朝さん、最高です!

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