コンテンツへスキップ

最近のことだけど、Apple Musicを利用していてDirty Projectorsという音楽バンド(なんて言う?)を知ったのだけど、そのバンドのアルバム『Dirty Projectors』(2017)の最初の曲、"Keep Your Name"が素晴らしいなって思って、そうか、これ、落語もこんな風に演りたいな、と強く思ったりして。

時間が流れる、って言うけど、これのイメージは直線とか矢印とかだけど、エリー・デューリングという人が「スーパータイム」という言い方で、”持続や継起に対して直交するような垂直的時間”という考えを提案していて、このスーパータイムはさらに、”超自然的で非局在的なものだとされる。故にそれは《本質的に非-因果的》である”なんだそう。

あ、このイメージ、素晴らしいなって思って。
私の最初のコラム「落語とポリフォニー」で言いたかったイメージって、これに近いと思う。

落語で噺を演るんだけど、ただ単にストーリーを面白可笑しく伝えるだけじゃ、私としてはちっとも面白くない。ストーリーを演る部分は直線的な時間、矢の時間の提示で、私がホントに表したいことって、それだけじゃなく、直線的なストーリー展開とは「垂直な」ところに「非局在的に」ある「超自然的な」できごと、そこに「浮遊」している「なにか」をほんの少しでも、そのつま先だけでも、そこになにか「ある」よ、と云いたい、それを私自身「ある」って感じたい、ってことなんだと思う。

"Keep Your Name"は音楽でそれをやっている。
小三治さんは落語でそれをやっている。

【補足】
"Keep Your Name"については「Dirty Projectorsの新曲「Keep Your Name」の謎を解く」
http://monchicon.jugem.jp/?eid=2143
に歌詞が載ってます。

Wikipediaによると、「日本伝統芸能」とは、明治期以前からあった芸術・技能で、明治期以降も存在しているもの、と定義されている。この日本伝統芸能を形式で分けると、歌、日本舞踊、演劇、音曲、演芸、工芸、芸道と7つに分類されていて、この中の「演芸」のひとつとして落語もちゃんと入っている。だから落語は「日本伝統芸能」だということになる。

この「演芸」の項目には、落語の他に、講談、浪花節、奇術、萬歳、俄、梯子乗り、女道楽、太神楽、紙切り、曲ゴマ、写し絵、花火、がある。俄、女道楽なんかは、これなんだろう?と興味を引くが、少し驚いたのは、この中に萬歳が入っていることだ。萬歳=漫才はもっと最近成立した芸能だとばかり思っていたけど、萬歳をクリックしてみると、なんと「平安時代頃すでに芸能として成立していったことが伺える」と書いてあって、さらにびっくりした。

ただその頃の「萬歳」は、新年を祝う歌舞だということで、それが今の「漫才」に変わっていったのは、明治以降だという。「漫才」はおもに近畿地方で独自に発達したらしい。大正末期にエンタツ・アチャコのコンビが「しゃべくり漫才」で絶大な人気を得たのが、現在の漫才にそのままつながっている。萬歳を漫才と表記するようになったのも、昭和8年頃、吉本興業宣伝部の仕業だという。エンタツ・アチャコの「しゃべくり漫才」はスーツ姿で会話のみで、それまでの太鼓を伴奏に唄う萬歳というスタイルとは画期的に異なっていた。それはアメリカのダブルアクトという話芸の影響が大きいということで、このことからビートたけしは、漫才の直接的ルーツはアメリカにある、と言っているとのこと。

実はわたしは落語とともに、漫才もやりたいと思っている。ごくシンプルなしゃべくり漫才をやりたい。すると浮かぶ疑問がある。落語と漫才はなにが違うの?ということだ。

何と言ってもまず演者の数が違う。落語はひとり、漫才は主にふたりで行う。この数が実は本質的な違いをもたらすのだとわたしはにらんでいる。

そして描き出す対象が違う。落語は伝統芸能らしく、「江戸」の雰囲気を描き出すこと、もしくはあくまで「江戸情緒」を下敷きに、人情や滑稽を面白おかしく描き出すことを目的に演じられる。対して漫才はなにかの雰囲気とか情緒を描き出すことを目的にはしていない。その場限りの「お笑い」を創造することを目的にしている。

と書いてみると、落語と漫才はまったくの別物なのだな、と思う。では逆に考えてみる。落語と漫才はなにを共通にしているのだろう?

すると、そこに「笑い」が、膝を抱えぽつんとうずくまっている姿が思い浮かぶ。

でもまだわたしには彼の姿をありありと見ることができない。彼に手を差し伸べても彼はその手を上目遣いに見やるだけで、彼の小さな手をわたしはつかむことができない。彼に目をやればやるほどに彼の姿はにじんでゆく。

でもでも。だからこそわたしは落語と同時に漫才をやりたいのだと再確認する。

例えば小三治さんの『かぼちゃ屋』を聴いていると、ストーリーとしての文言の中に「もっとまともな人間になってくれ」という、おじさんの与太に対する熱いきもちを感じることができる。そのとき、この噺は単なる与太の滑稽譚なのではなく、与太の新生を祈るおじさんの人生訓でもある、と聴くことができる。もちろんそのようなことが表立つように話されるなんて野暮なことを小三治さんがするわけはなく、あくまでそれは聴く側の自由裁量によるのだけど、一度そう思い立ってみると、今度はどちらかと言うと、おじさんのきもちが大きく聴者のこころの中に広がっていることに気づく。このように、ストーリーとは独立した、ある意味の表出がポリフォニックに確立していく過程としての落語は、ひょっとすると、小三治さん独特のものなのかもしれない。試しに一之輔さんの『かぼちゃ屋』をいくら聴いてみても、そのような事態は起こらない。

同じく小三治さんの『意地くらべ』を聴いてみるといい。「男ってえやつは、一度決めたことは、ぐーっと、一に押し二に押し三に押し、四に押し五に押し六に押し、どこまでも押し続けなきゃいけない。引いたら引いた方が負けになる」「今までこうして生きてきたけど、意地を張り通すってえことはずいぶん損をすることもあります。泣きをみることもありますよ。でもねえ、だからって引っ込めるわけにはいかないんです。なにがなんでもやり通さなきゃあ、腹がおさまらない」なんていうセリフを聴いていると、小三治さん、これ、あなたのことなんじゃないの?なんて勘ぐりたくなるくらいに、意地っ張りな男の生き方の主張が前面に出ているように思える。

わたしは秋風亭てい朝さんの主催する落語教室に通っていて、てい朝さんを言わば、師匠と仰いでいる立場なんだけど、同じく秋風亭門下の生徒(弟子?)さんに、秋風亭あい朝という方がいる。定例の稽古の折り、この方の『金明竹』を聴いて、わたしは言わば、ぶっ飛んだことがある。それはひとつのストーリーを追って楽しむ落語なんかじゃなく、あちらこちらから、いろんなセリフがつぶてのようにバンバン飛んできて、それが時に重なり合い時に追い越し合い、声音も調子も速度も、様々な要素が原色のまま繰り出されていくその様は、まるで落語のキュビズムを見ている聴いているようで、すさまじい圧倒を感じ、そのままぶっ飛ばされちゃった。

言わば違う意味、かもしれないけど、とにかくすごい落語だった。もちろん師匠からは酷評されたんじゃないかな、と記憶しているけど、わたし的には、これこそわたしの目指す落語じゃないかしら、と思ったぐらいすばらしい落語で、それを聴いてわたしは総毛立ってしまった。わたしの目指す落語の少なくともひとつの方向性をそこに見た思いがした。そこには、ポリフォニーを通り越したデジタル的な多様性・多義性があり、和色じゃなくて西洋的な色使いを駆使した明るい点描絵画のような革新性があった。

あい朝さん、最高です!