+問題提示:「落ち」ってなんだろう?
落語は落とし噺といわれるように、ひとつの噺の最後に「落ち」と呼ばれる一言があって完結します。
でも「落ち」というと、なにか落下する、降下するというイメージがあるせいか、縁起がよくないということで「サゲ」ともいいます。どっちでも同じような気がするわたしですので、ここでは「落ち」ということにします。
でも、この「落ち」ってなんでしょう?
わたしはこの問題を5年ほど考えて、このたびようやく答えにたどりついたので、それを説明します。
でもそれには少しだけ下準備が必要です。
+下準備:表現ってなんだろう?
落語の噺は、バカバカしいばかりのようで、実は大変難しいあり方をしています。どういうことかといいますと
「噺はある種のセンスというか、ことばでは言い難い感覚を伝えるためにある」
というあり方です。まあ、これは当たり前と言えば当たり前なことです。
例えば、先般亡くなられた志村けんさんの「ヒゲダンス」、あの滑稽さ面白さは志村けんさんがあの音楽に合わせてあの格好や仕草をするから伝わるものです。あの滑稽さ面白さはことばでは言い難い感覚です。
落語の噺もそうで、そうした「ことばでは言い難い感覚」をことばや身振りや表情で伝えようとする芸です。
ではどうしてそうした「ことばでは言い難い感覚」が伝わるのでしょう?
それは、「ことばでは言い難い感覚」を「誰でもわかるものやこと」に変えているからです。
もう一度志村けんさんの「ヒゲダンス」を例にとると、あの滑稽さ面白さを、誰でも見ればわかる「ダンス」に変えているから、わたしたちはあのダンスを見て、ニタニタゲラゲラ可笑しい気がしてくるのです。
そのとき、わたしたちのアタマの中では
「ことばでは言い難い感覚」==「誰でもわかるものやこと」
という対応関係ができあがっていることになります。
この対応関係をつけることを「表現」といいます。
聴者のアタマの中に、この対応関係をうまく描いてあげるスキルこそが、演者の腕になるわけです。
以上で下準備は終わりです。
+結論:「落ち」ってなんだろう?
落語の噺の中には「くすぐり」と言って、噺のあちらこちらに
「ことばでは言い難い感覚」==「誰でもわかるものやこと」
の対応関係が散りばめられています。
ですからこれらがうまく演じられれば、噺の間中、聴者はゲラゲラニタニタと笑わざるを得ません。あるいはしんみりとして泣きたくなる気持ちにさせられます。
噺の最後にやってくる「落ち」はこうした対応関係のまとめとして機能するものです。まとめというか、最後の口直しというか、こうした対応関係の経時的提示の羅列—それが落語です—の最後を締めくくる、終止符、ピリオドなのです。
例えばそれがダジャレ落ちだとすると、落語の最後の一言によって、あれとあれがダジャレで結ばれているんだ、という対応関係が聴者のアタマの中にできれば、目の前で頭を下げる演者に対して心からの拍手を送りたくなります。
+例示:『千早振る』
例として落語の『千早振る』(入船亭扇辰さん)を取り上げて、その「落ち」をお話の構成として研究してみます—所々に散りばめられている宝のような「くすぐり」はここではとりあげません—。
—銀さんやってくる
娘が百人一首に凝っている。その中に在原業平《ありわらのなりひら》が読んだ一首があるが、娘はその歌の意味を教えてくれと言う。親の威厳を保ちたいからわからないとは言えない。そこで旦那にその歌のわけを聞きに来た。
—旦那
「千早振る 神代もきかず 龍田川 から紅に 水くくるとは」(この歌を何度も口にして聴者のアタマに定着せんことを目論む)
龍田川というのは、相撲取りだ。強くなりたいので女断ちをして精進した。5年の後に大関になった。そこで(女断ちの)願ほどきをすると、贔屓に吉原に連れて行かれた。そこに千早太夫《だゆう》という花魁《おいらん》がいた。龍田川はたちまち千早太夫に一目惚れする。しかし千早太夫は、相撲取りはいやだと言って龍田川を振った。それならと妹格の神代太夫に矛先を向けると、神代太夫にも振られてしまった。龍田川は相撲取りがつくづく嫌になって、国に帰って豆腐屋になった。龍田川の両親が国元で豆腐屋をやっていたのだ。龍田川は一心不乱に働き、5年の後に立派な豆腐屋になった。ある秋の日の夕暮れ、そこに訪れた一人の女乞食。三日三晩何も食べてない。商売物ではあろうが卯の花(おから)をくれと頼む。しかし卯の花を与えようとしたその時、龍田川はその女乞食があの千早太夫だということに気づき、卯の花をやるのを止める。千早太夫もその豆腐屋が龍田川だということに気づく。千早太夫はそばにあった井戸の中に飛び込む。
—銀さん
でも最後の「とは」ってなんです?
—旦那
お前さんも細かいなあ。それぐらい負けとけよ。
—銀さん
いやあ、負けられない。
—旦那
後でよーく調べたら、千早の本名だった。
この話の構成を考えると、銀さんも旦那も人に何かを聞かれて「知らない」と言えない意地っ張り・知ったかぶり屋だということがわかります。そんな知ったかぶり屋の滑稽さがこの話での「ことばでは言い難い感覚」でしょう。それともうひとつ、旦那が滔々と歌の説明をしていく、そういう思いつきの才—というか、ふてぶてしさ?—が銀さんにはなかった。銀さんはそれが悔しくて最後まで「とは」のわけを言ってみせろとせまる—このあたりのニュアンスもこの話での「ことばでは言い難い感覚」だと思います—。旦那はそんな銀さんの食い下がりにも負けず、最後の最後まで思いつきの嘘を並べ立てて見せた。
ですから、
「知ったかぶり屋の滑稽さ」+「知ったかぶって作り話を作れる才能への嫉妬」==「最後まで作り話をしてみせる」
という対応関係—「落ち」—があるわけです。
ですから話者は、旦那の場面では、自分のとんでもない作り話を途方もなく自信満々に語っているように演じますし、銀さんの場面では、それを納得してしまう自分のもどかしさに少し不機嫌になっている、そして最後には意地になっているように演じます。
これで、聴者は最後の「落ち」を自らの腑に落としていきつつ、そうか、わかったよ、美味しかった、ありがとう、という思いで噺が終わったことを受け入れることができるようになります。
以上落語の「落ち」について、わたしが5年間考え続けたことを述べたわけですが、そのわりには大したことなくなくない?という方、あなたは実に正しいです。
ごめんなさい。