昨日書きそびれたこと。

レイヤーということばを使って、ぼくがよくイメージするのは「ジャンプ」という感覚だ。

目の前にひとつのレイヤーが広がっていて、そのレイヤーでぼくの日常の生活が展開されているとする。仕事にしろ遊びにしろ食事にしろそういった諸々がそのレイヤーの上で起こっている。

そこではあれこれあるにせよ、特にこともなく時間が経過する。あたりまえの世界がそこにある。そんなレイヤーを「あたりまえレイヤー」と呼ぼう。

なにかの考えが開かれている場を考える。
〜ということを説明するのに、それはホニャホニャホナホネなのです、と言う。しかしそのホニャ…がどうにもあたりまえで、おっと目を惹くものがない。わっと耳をそばだてさせるものがない。それはその説明がこの「あたりまえレイヤー」で展開されているからだ。言わんとすることはわかるけど、それがどうしたというのだろう。こころが動かない。

そんなとき想起するのが「ジャンプ」することだ。
このレイヤーから身を離し、一つ上のレイヤーに乗り移ること。

うまくジャンプできたなら、そこから見える世界はちょっとだけ面白い世界だ。