ことばと言えば日本語しかほぼ使えないぼくだけど、日本語大好きです!

中学のときから英語が苦手だったのはそのあたりも関係してそうだ。日本語と英語とではその肌感が違う。

人でもよくあるよ。初めてにして好きになっちゃう人と、初めてにして敬遠したくなる人と。出会ったときのその肌感が全然違うもの。

「自分のその肌感を信じきれるかどうかが勝負なんだこんちきしょう」

と、談志師匠なら言いそう。

でも、その「肌感」ってなんなのか?

「肌感」じゃないけど、なんとなくそれに似た「肌理(きめ)」ということばについて考察しているのが、『レイアウトの法則』(佐々木正人、春秋社、2003)だ。

ものたちはぼくたちに感知される表面(=最初の出会いの状況)としての「肌理」をもっている。ひとつのものの「肌理」はそれとは異なるものの「肌理」と連続的になめらかになだらかにつながっている。顔の肌理から首の肌理へそして上衣襟の肌理へ。空の肌理は山の肌理へそして林の肌理、樹木の肌理、草の肌理、地面の肌理、靴の肌理、ズボンの肌理、セータの肌理、手のひらの肌理へとつながっている。

見渡せば、ぼくたちはこうした「肌理」全体に包まれるようにしてある。「肌理」こそが「肌理」だけがぼくたちに感知されるすべてである。そうした「肌理」のありよう全体を「レイアウト」と呼ぶ。

そしてこの「レイアウト」についてずいぶん前から探求している人たちがいる。彼らはアーティストと呼ばれる人たちだ。

とすると肌感を気にするぼくはやっぱりアーティストなのかもしれないなあ。
ゴシゴシ(鼻の下を人差し指で擦っています)。