テレビドラマなどを見ていると、刑事がやってきてドアを叩いているという場面をよく見る気がする。

ドアが開いて刑事と犯人が顔を合わせるわけだけど、最初は刑事はドアの中の人が犯人とは特定できていないが、ドアの中の人は相手は刑事だとわかっている。

そうした場面から情報がやり取りされ、物語が動いていく。

ドアというのは室内と室外と、その出入りを制御するものだが、ドラマに出てくるドアを出入りするのは人物というよりも「情報」だと考えられる。そしてそうした「情報」が視聴者に提供されることでドラマが成立する。

演劇とかだとドアではなく、人物が直接対面する場面でセリフのやり取りがなされ、それでそのストーリーが観るものに伝わる。もっとも吉本新喜劇などではちゃんとドアが設えられていたりするが、家の中は丸見えで、戸を開けて「ごめんやす」などと入ってくる必要は特にないのだが(観客に向けた方角には壁がないのだから、そこからいくらでも出入りできる)、演者と観るものの間ではそれが当然のように受け入れられている。

ドアとはつまり「情報」の出入り口としての役割を担っている。

チャンネルという言い方もよく聞くけど、あれはドアのこうした役割を特化したときの言い方だろう。

だからなるべく多くのドアをもっていることが交流には欠かせない。
とはいえ多すぎるのも問題だ。

誰かそのへんの塩梅を教えてください。