ちやりいず

何ごとに対しても、それを好きな人とそうでもない人、ということでぼくたちを分類できちゃうのではないか。しかもある意味、遺伝子レベルで。

というのも、このところぼくの職場のスタッフから、自転車に乗るのがすごく好きな人の話を聞くことが多発しはじめたのだ。



その1。
そのお母さんの息子さんは高校生のときから自転車が好きになったという。ぼくも一応自転車好きということを職場で公言しているから、そのお母さんからお子さんへの自転車購入の相談を受けたこともある(息子さんから要求された自転車のグレードがママチャリなどのそれと段違いだったので、そんなものに価値を見出していないそのお母さんとしては驚いて、相場的な外部情報を仕入れたかったのだろう、と推測する)。で、その息子さん、手に入れた素敵な自転車を乗り回し、5,6人の仲間(そのお母さんは彼らを称して「チャリーズ」と言う)を引き連れて、今日は呉まで明日は宮島まで、と遠乗りを続けていた。

彼のそうした自転車熱は大学入学後も失せることなく、むしろさらに加熱し、おばあさんからもらったという入学祝い金を全額はたいて、さらに高級な自転車を買ってそれと同居するような形で滋賀の方へ移住した。

そこからはさらに広範囲に渡る自転車走破冒険をされているらしいが、お母さんももうその全貌をつかんではいないようだ。

ただ、彼と徒党を組んでいた例の「チャリーズ」の他の仲間はすでに自転車を降り、今はバイクだ車だと、よその方面に走り出しているらしい。

その2。
これも「その1」のお母さんと同じで、そのお母さんもその息子さんから自転車に乗りたい由を受け、やはりぼくに相談をもちかけた。

それでその息子さんは、ぼくなんかが乗っている自転車の何倍もの金額が必要な自転車を買ってもらって、今が惜しいという熱心さで、これまたあちらこちらへ遠乗り体験を続けている。

しかもその息子さん、まだ中学生だというからびっくりした。

その3。
これは職場の夜勤に来られる年配の方なのだが、今年初めの新年会の折にその方も自転車好きだということを伺い、以来懇意にさせていただいている方がいる。この方はぼくなんかとは桁の違う自転車好きで、この秋も仲間と一緒に久しぶりのツアーに出かける予定だそうだ。

ちょっと長くなったけど、そうした話を聞くにつれて思うのは、こりゃ生まれたときからの天性だな、ということだ。

ぼくなんかもその端くれだとは思うけど、彼らにとって、自転車に乗るということは、なんの前提も但し書きもなく、ただ快楽に感じられることなのだ。だから自転車に乗る。自転車に乗っているときのあの全能感にも似た、うっとりするような、すげえぞこりゃ、とアドレナリンが湧き出すような、あの高揚。

そんな高揚を感じられる者と感じられない者。

これはもう遺伝子レベルの違いとしか思えないのだ。