ぼくが変わるから周りが変わる。

順番はそうでなくてはいけません。



環境が変わるからその中にいるものたちが変わる、と思われがちですが、そうした変化は、中にいるものたちが周りの環境に対応するだけのことです。対応することで中にいるものたちは自分を変えているのだ、と見ることはできます。でもそれはあまりに結果論的な見方です。

環境が変わったって変わらない(環境の変化に対応しない・できない)ものたちだってたくさんいるはずで、そうしたものたちはそれらを見るものたちから忘れ去られることで、まるで最初からいなかったかのように扱われる。

すると、環境の変化に対応して自身を変えたものたちだけがそのあとに残るので、まるで環境の変化がその中のものたちを変えたように見えるのです。

環境が変わったことを契機に自身を変えるものたちもいるし、変えないものたちもいる。やはり自分を変えるのは自分自身であって、この場合の自分の変化のきっかけが環境変化だっただけです。

例えば旅行に出ることを考えるとわかりやすい。いつもいるところから行ったことのないところへ自分を移動させると、周りの風景が変わります。それだけのことだと思います。

逆に言うなら、周りの風景が変わったのは自分が変わったから、と言えるはずです。

自分の変化なんて自分ではわかりにくい。というか、ほぼわからない。
だから、周りの風景を眺めてそれが変わっていることから自分が変わったことを知る、ということになると思うのです。

問題は、そうやって変わった自分は、変わるまえの自分より「しあわせ」なのか?ということです。

例えば映画『ゴッド・ファーザー』で、マフィアのボス、ヴィトー・コルレオーネの跡目を継ぐのは、一家の稼業から最も遠くにいた(いて欲しいと家族から思われていた)三男のマイケルです。

これが長男のソニーが継いでいたとしたら、彼(ソニー)は自分の変化をそのままのものとして受け入れることができたはずで、二代目のボスになる前となった後で、彼の「しあわせ」はそれほど変わらなかったのじゃないか。

でもマイケルの場合は劇的な質的な自分の変化に対して、決して「しあわせ」を感じているようには見えません。むしろどんどん不幸になっていっているような感じです。

これはいったいどういうことなのでしょう?

ぼくたちは変わる。
でも変わることが即「しあわせ」とは言い切れない。

でもそのままでいることはできない。
原理的に「できない」のです。

自分が変わって、それが「しあわせ」と感じられないとしたら、その変化はまずい方向への変化だったのでしょうか?

そうだとしたとき、変化の方向を変えることがぼくたちにできるのでしょうか?