僕の前に道はない
僕の後ろに道は出來る

昔、生徒だったときに国語の授業で習った、高村光太郎さんの詩『道程』の一節だ。

昨日YouTubeで石井裕(いしいひろし、1956-)さんという人と成田悠輔(なりたゆうすけ、1985-)さんの対談動画を見た。

印象に強く残ったのは、石井裕さんの話されているときの隠せないエネルギーと話されている話のシンプルさだった。
あれこれ考えるのではなく、原理からいけばこれでしょ、的なシンプルさ。
目標をこれと見定めたら、あとはそこは向かってバクバクといけばいい、そんな割り切りの良さ。

動画のキャプションにある、”困難を乗り越える3つ力”に興味をもって視聴したのだけど、今考えると「困難を乗り越える」という形容のことばが、石井さんの言っている内容と合っていないように感じる。

石井さんの仰る「3つの力」とは、(メモしたのだ)

出杭力
道程力
造山力

の3つだった。

1つ目の「出杭力」から説明すると、どうしたって出る杭は打たれるのだから、だったら打たれにくいように思いっきり出ればいい、ということ。

よく言われることだけど、それに「出杭力(しゅっこうりょく?でるくいりょく?)」と名前をつけられたのは面白い。ほどほどじゃなくやりすぎろ、ということ。すべてに通用するわけじゃないだろうけど、確かにそんな人がたくさんいたらやっかいだけど面白そうだ。(もちろんぼくも出杭派だ。だからたいてい煙たがられる)

2つ目の「道程力」はなんだろうと思っていたら、高村光太郎さんの『道程』の「道程」だった。

既成路線ではなく道なき道を歩け、ということ。

高村光太郎さんの『道程』を今回あらためて読んでみると、(結構長い)、後半の一節に

自然は人類のため人間をたくさんつくるのだ
腐るものは腐れ
自然に背いたものはみな腐る
僕は今のところ彼等にかまっていられない

ということばがあることに気がついた。

今見ると冷たいようだけど、自然のあり方はこれぐらいハードなんだということ。

ぼくなんかが時にバイオレンス映画(例えばリドリー・スコット監督の『悪の法則(2013)』など)をどうしようもなく見たくなるのは、そこになんらかのリアルがあると感じるからだと思う。

話を戻すと、これもよく言われることだ。
ただし、これにも「道程力」と「力」をつけちゃうあたり、赤瀬川原平さんの「老人力」に似たセンスなのか。

3つ目の「造山力」は、石井さんご自身のことを例に出され、MITに誘われたとき、これから頂上も見えないほどの大きな山に登るんだと思って胸を踊らせていたけど、行ってみると、全然違ってて、そこにある山に登るんじゃない、石井さん自身が新しい山を造るんだ、と言われ、思いっきり感銘を受けた、という感じのことを言われていた。

ね?

”困難を乗り越える”っていうより、「困難」なんかどうでもよくて(だって「困難」って、誰かがやってみて難しい、という、つまりもう誰かの手垢がついてる感じの言葉でしょ?)

思いっきり(「出杭力」)
誰も知らないところで(「道程力」)
誰も見たこともないことをやれ!(「造山力」)

っていうことを仰ってると思う。

そして実はぼく、こういうのが大好きなんです。