《1417年の冬。ポッジョは馬に跨り、南ドイツの丘を越えていた。》
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『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』
(スティーヴン・グリーンブラッド、2012)
より02
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Gian Francesco Poggio Bracciolini
1380-1459
ルネサンス期イタリアの人文主義者。ルクレティウスをはじめ、古代のラテン語文献を見出したことで知られる。
ポッジョは各地の修道院を訪ね、古代のラテン語文献を探索した。
その中でも1417年にドイツ(神聖ローマ帝国)でルクレティウスの『物の本質について』を見出したことが知られている。
ポッジョはフィレンツェに人脈を持っており、これらの古典は写本で伝えられ、ルネサンス期の思想に大きな影響を与えた。
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ポッジョは教皇庁の書記局に所属して、そこで教皇の公文書や外交文書を作成・管理していた。
《ほっそりとした体つき。
ひげは生やしていなかった。
服装は上品で仕立てはよい。簡素なチェニックとマント。
(チュニックとは、お尻が隠れる辺りから膝辺りまでの長さのトップスのことを言います)
田舎育ちでないことは明らかだった。
しかし都会や宮廷の人間でもなく、騎士でもなかった。
司祭や修道士でもなかった。》
しかし1415年、そのとき仕えていた教皇ヨハネス23世が廃位され、教皇職が2年間空席となる事態が起こった。ポッジョに1416年春から1417年にかけて、写本探しに費やす時間ができたのだ。
フランチェスコ・ペトラルカ(1304-1374)がキケロ(紀元前106~紀元前43、共和政末期のローマの政治家、弁護士、文筆家、哲学者)の忘れられた手紙を発掘して名声をわがものにしたことをきっかけに、当時のイタリアでは人文主義(humanism)という世界観が沸き起こった。
それは、ギリシア・ローマ時代の文化や哲学を復活させるプログラムだった。
ポッジョはそうした動きの第二世代にあたる人文主義者だった。
《ポッジョは本を探していた。
彼が探していた本は、時課祈祷書、ミサ典礼書、讃美歌集などではなく、また、神学、医学、法学などの学術書でもなかった。
彼が探していたのは、古い写本だった。》
《修道院だけが中世の文化的暗闇の中にあっての灯火だった。
修道士たちは西洋社会の主要な読者であり、司書であり、本の保護者であり、本の製造者であった。
ポッジョのようなブックハンターはそうした修道院のあり方を良く知っていた。
ターゲットは修道院に絞られていた。》
そしてポッジョは大物、ルクレティウスの『物の本質について』、を探し当てる。
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それはまるで宝探しだった。
「物語とはつまり『宝探し』だ」と言ったのは蓮實重彦だけど、いつだって誰だって自分なりの「宝」を欲しているのだ。
しかしそれが単に「欲する」から「探す」となり、そこから「宝探し」つまり「物語」が始まるには、その宝が何なのか、具体的に想定することが必要だ。
さあ、ぼくと一緒に現代のポッジョになろうじゃないか!