昨日もじゅん朝さんと一緒に、広島は府中町で開催されたさる落語会に出席。とてもあたたかい落語会でした。主催されたかと吉さんはじめ、ケアマネのみなさん、ありがとうございました。次回もぜひよろしくお願いします!
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昨日のじゅん朝さんの落語というか、じゅん朝さん自身を見ていて思ったこと。
それは、最後まで尽くす、という姿勢。
先日も昨日もそうだったけど、出番を待っているじゅん朝さんの隣に座ってもうひとりの演者さんの噺を聴いているとき、ぼくはその噺の中に入って、笑ったり手を叩いたりしてしまうのだけど、じゅん朝さんはそんなぼくの隣で比較的大人しくされている。でもなんだか首や上半身を細かに動かしているような気がする。隣にいるので気配で感じることができるのだ。
それはつまり、自分の出番までの時間、噺の練習をしているのだ、と気づいた。
じゅん朝さんに限らず、例えばジャンボ衣笠さんなんかも絶えずぶつぶつと練習されていて、そういった方は少なからずおられることは知っていた。
でもそうした行為をぼくは、往生際が悪い、とまではいかないけれど、そうした方向で解釈していた。
そうした「往生際が悪い」行為は、単に演者の不安という、心理がなせるわざだと思っていたのだ。
でもそうではない可能性に気がついた。
他の人はいざ知らず、じゅん朝さんが不安なわけはない。だとしたらつまりそれは、自分の芸を、出番という最後の最後まで磨き上げよう、という向上心からくるものなのだ!と気がついた。
それは、お客さんにできるだけ面白い噺を提供したい、というサービス精神の賜物だったのだ。
あたりまえのことに気づくのはむずかしい。
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昨日の口演が終わり、会場の片付けが終わった後、出してくださった紅茶を飲みながらじゅん朝さんと落語について話す時間があった。
昨日のブログでもちょっと出たけど、落語における「演劇的方略」のひとつ、観客の頭の中にいかにして物語を舞台を描き出すか、が話題になった。
やはり細かいところの描き出しこそが重要なのだろう、という結論。
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だとしたら、落語や小説や映画などのいわゆる「物語」の構成法をまずは考えたいな。