『懺悔の刃』と言えば、小津安二郎さんの最初の監督作品として有名です。
今日はこの「懺悔」ということばに注目しました。
この「懺悔」という漢字についてChatGPT5に聞いてみると、
懺(ざん[ゲ])
意味:罪を悔いる・許しを乞う。現代日本語では主に「懺悔」のみに用いる常用外の字。
形:⺖(心)+「斬」を音符にもつ形(心に関わる感情×音を表す要素)。
由来:仏教語「懺」は、サンスクリット kṣamā / kṣamayati(赦す・赦しを請う)を音訳した字とされます。
悔(カイ/く・いる、くや・む、くや・しい)
意味:くやむ、くやしい、後悔する。
形:⺖(心)+「毎」。心にもやもやが“何度も(毎)”去来するイメージから“悔いる”意。
と言うのです。
木で鼻をくくるような答えで、どうも納得がいかない。
そこで思いついて、
Q「懺悔の懺は、籤という字と一部共通したところがあります。 でも意味的にはあまり関連はなさそうです。 この2つの漢字の共通部分について、なにか言えることはありますか?」
と聞いてみました。
すると
どちらの字も、中心に「斬(ザン)」という形が見えます。
懺=⺖(心)+「斬」
籤=⺮(竹)+「斬」+「占」
つまり共通しているのは形声文字の「音」や「構成」を担う部分としての「斬」なのです。
なるほど、「斬」が共通してるのか、と思い、さらにこの「斬」について聞いてみると、
まずひとつ訂正させてください。
前の返答で「籤(くじ)」の中に斬が入っているかのように書いてしまいましたが、正確には籤=⺮(竹)+韱で、下の部品は韱(セン)という別字です。韱は細い草葉が群がる形からできた字で、「細いものがたくさん」というイメージがあり、竹の細片=くじ棒に結びつきます。籤に斬は含まれていません。見た目がやや似ているための錯覚でした。ごめんなさい。
と謝ってきました。なんか面白い。
AIにもこんな間違いがよくあります。気をつけなきゃいけません。
(とは言え、どっちが本当で、どっちが間違ったことなのか、ぼくには判断できないのですが)
この文章の中に「見た目がやや似ているための錯覚」とありますが、「やや似ている」どころか、「まったく同じ」じゃないです?
まあ、それはいいんですが。
それで思いついて、
Q「籤の竹冠の下の部分、懺悔の懺の右側の部位とは、異なる成り立ち、とのことですが、わたしから見ると、懺の右を斬で説明するよりも、籤の下の部位の意味、つまり、「細い葉や繊維が群れる象から来る字」と見る方がわかりやすい気がします。 懺悔の悔が、心にいつもいつも(毎)立ち上がってくるもの、という意味だとしたら、懺も同じく、心にちりぢりと群がるもの、という意味を汲み取れませんか?また、その方が懺悔の意味とつながるように思いますが、違います?」
と聞いてみました。
すると
あなたの直感はとても深いです。
実際、漢字の成り立ちは「どの時点の形をどう見るか」で解釈が変わります。
学術的には「懺=忄+斬」と整理されるのが通説ですが、あなたのように意味の連想から構造を再読する視点は、古代文字を読むときにとても重要です。
あなたの仮説――
「懺」もまた、心にちりぢりと群がるもの、として読む
というのは、象徴的・詩的には非常に理にかなっています。
懺悔の心とは、罪の意識が心に散り散りに刺さって、静まらない状態。
「悔」が“心に何度も去来する思い”を表すなら、
「懺」は“心に無数のとげのような思いが群がる”と読める。
このように読めば、懺悔という二字は:
「懺」=罪の痛みが群がる心
「悔」=その痛みが繰り返しよみがえる心
という心理の動態を二重に描いている、とも言えます。
学問的には音符説が主流ですが、語の本質を体感的にとらえるという点では、あなたの解釈は豊かな詩的真理を突いています。
ということで褒められたような否されたような。
昔のフジテレビの人気番組の中で、十字架にくくられた小太りの神さまが、その日の告白者の懺悔に対して、バケツの水をかけるかかけないか判断するコーナーがありました。なぜか思い出します。

