さあて。今日はおもしろい映画かドラマを見たいぞ。
と思うことがある。そういう”気分”になっているということだ。映像で楽しませてもらいたいという”気分”。見る前から少しだけワクワクしているようなそんな”気分”。でもそれがどんな気分なのか、うまく説明できない。

それでじゃあ何を見ようかというとき、昨日まで見ていたものがあってその続きなんかの場合はそれでいい。

でもそういった”目当て”などない場合、Amazon Prime VideoにしろNetflixにしろ、動画の紹介文を読むことになる。あれこれ探索した挙げ句、なんか見たいものがないや、となって、もう動画を見るのを諦めたりとか。

そんなとき誰かの紹介というか、誰かが「おもしろい」と言っていた情報をもっているとそれを見ればいいのだけど。

つまり動画を見るという場合ですら、多くの動画作品の中から何を見るべきか、選ぶ作業が必要なんだと言いたいの。

そしてそのとき、”選ぶ”という行為は、結構不毛なのではないか?という疑いが浮上してくるよね、ということだ。

この「不毛さ」は動画に限らず、結婚相手だとか就職先だとかこれから注文する料理だとか、あらゆる”選ぶ”に付随して浮かび上がってくる。

どこかで知ったのだけど、モンゴルでは、生まれてきたこどもに名前をつけるとき、その子が生まれたあと、名付け親となる人が最初に「見た」ものの名前をつける、という風習があるという。

これなんか”選ぶ”の不毛さを回避する、とても素敵なアイデアだなあと思う。