なにかを出さないと

昨日(2024年9月21日(土))朝、テレビにNHKが映っていて、出勤のために着替えながらテレビに視線を向けていると、唐十郎さんが「なにかを表出しないと窒息してしまう」みたいなことを言ってて、そこでぷつんと番組が終わった。

半袖のTシャツに首を通しながら、ぼくだったら「表現」と言うかなあ、なんて思いながら唐さんの「表出」ということばを思い返していた。

今調べてみると、「表現」というのは意図して、伝えようとしてなにかを外に出すことで、「表出」というのは意図せず、思わずなにかが外に出てしまうこと、という違いがあるらしい。

この違いはなかなか難しい。

喩えが下卑てて恐縮だけど、大便が出ることはどっちなんだろう?状況によって使い分けることが必要かもしれない。なかなか出なくて苦しくなって、気張ってでも出すときは大便を「表現」するということになるけど、出そうとは思ってなかったけどむしろ出したくないのに座ったらつい出ちゃったときなんかは、大便を「表出」してしまったことになるのかなあ?

でも唐さんの言うことはぼくにもなんとなくわかる気がする。

ぼくだけじゃなく、たぶん誰でもこんな”感じ”はあるんじゃないかな。唐さんのように意識的に「窒息」してしまう、までは思ってなくても、なんかスッキリしないぜ的な”感じ”。

マンガ家の花輪和一さんのどれかの作品の中に「人間はただの筒だよ」というような言い方があったと思うんだけど(違うかもしれない)、煎じ詰めると人間は出して入れるだけのあり様だと言い切れるのかもしれない。そういえばマンガ『おれは鉄兵』にも、鉄平の精進の時期、鉄平がご飯を食べてすぐに和式トイレにまたがりながら、「入れたら出す」というセリフを言うコマがあった。

結局ところてんみたいなもので、人間は何かを入れざるを得ず、だとしたら何かを出さざるを得ないんだろう。

ということで、ぼくもなにかをばりばりと「表現」していきます。