ぱらどつくす

高校生だったとき、友人が「パラじゃ。パラじゃ。パラドックスじゃ」と、半ば驚きながら半ば笑いながら、廊下かなにかで一人祭りのように騒いでいたことを思い出す。いつでも。

友人は数学の研究を独自にしていて、その頃は「四色問題」を考えていた。全ての地図は4色あれば塗り分けられる、というあれだ。たぶんそのことを考える中で自分の考えが、矛盾=パラドックス、に行き着いついたのだと想像していた。

論理学的に言えば、矛盾からは何でも生みだすことができる。矛盾を仮定すると、すべての論理式がそこから導かれるのだ。

そうなっては元も子もないので、あれほど自由な数学の中でも、矛盾だけは排除されている。

それを逆手にとって、「背理法」などという論法もまかり通っている。ある仮定から矛盾が導かれるならば、その仮定は間違いだ、というあれだ。「数独」では大変お世話になっております。

大学生だったとき、別の友人とよく話をしていて、彼の言うことがあれとこれとで矛盾しているので、それを指摘したら、その友人が「僕は僕の中に矛盾を飼っているんです」と言ったことを思い出す。いつでも。

そのときぼくは、半ば驚きながら半ば呆れながら、「パラじゃ。パラじゃ。パラドックスじゃ」とひとり小さくつぶやいたことは言うまでもない。

正論と言われるもののつまらなさは、正しいことしか導き出せないところにある。

“正しい”ことにはそれほど価値はない。価値があるとぼくが思うのは、その「正しさ」が如何に導かれたか、ということと、その「正しさ」がなにを生む出してくれるのか、ということなんかだ。

その「正しさ」から、とても多くのことが生まれ出るとしたら、それが面白いということのピュアな姿だと思う。その「正しさ」から生み出されることが特に意外な「正しさ」だったりしたら、もうワクワクしてしまう。

そして、そうした豊かな「正しさ」は、ひょっとすると「矛盾」のすぐ近くにそっと佇んでいて、「矛盾」に陥りそうなそんな間際で、誰かに見つけられるのを今か今かと待っているのではないか?

そんな気がしてならない今日この頃だ。

「パラダイスに至ろうと思う者は、パラドックスをその胸に抱いてなければならない」
(『パラパラ法典』2024 より)