佐藤正英さんの『隠遁の思想』をなにかのおりにぱらぱらとめくっています。

その123ページに

《隠遁は世俗世界に心弱く屈服し、敗退する在りようではない。消極的で退嬰的な現実逃避ではない。世俗世界の無常によって挫折を余儀なくされた恋になお固執し、恋を絶対願望として捉えかえす在りようである。何に対する願望がそのひとにとって絶対願望であるのかはさまざまである。主君に仕えることであったり、生計を保つことであったり、妻子や官位であったりする。隠遁の動機の多様さはそこに由来する。》

とあります。

それまでぼくは、「隠遁」って世に入れられずすねて世を捨てること、みたいな感じでイメージしていたのですが、まったく違うようです。

何かを得ようとして得られないので、腹いせにその何かを含む世界のすべてを捨ててしまうことではなく、その何かに専念するために、その何か以外を捨てて、世界をその何かだけにしてしまうことだということになります。

生活に対するこうした姿勢は今現在でもあるのでしょうか?

そう問うてみて、まっさきに思い浮かぶのは野球の大谷翔平さんのことです。
大谷さんは野球を「絶対願望」にしておられるように感じます。
(もっとも大谷さんは野球で挫折はされておられないでしょうから、ここで取り上げるのはふさわしくないかもですね。)

比較するのも恥ずかしいですが、ぼくはゆるい感じでやってます。
あれかこれか、ではなく、あれもこれも、な感じ。

ちょっとあこぎかなあ。