先日サンシャインに行くとささぴょんから、「『国宝』、観に行って下さい」と命じられ、命じられるままに昨日(2025年6月14日(土))朝、観に行ってきた。

特になんの前情報もなく(ささぴょんに云われるまで、そんな映画が今かかっていることすら知らなかった)カミさんを誘っていつもの映画館に行った。

<Geminiによる映画情報>

映画『国宝』について

公開日:

2025年6月6日(金)より全国ロードショー中です。

原作:

芥川賞作家・吉田修一さんの同名小説『国宝』です。吉田修一さん自身が3年間歌舞伎の黒衣をまとい、楽屋に入った経験を血肉にして書き上げた渾身作です。

監督:

李相日(リ・サンイル)監督がメガホンをとっています。李監督は、吉田修一さんの小説を原作とした作品としては『悪人』(2010年)、『怒り』(2016年)に続いて3度目のタッグとなります。

あらすじ:

戦後の日本を舞台に、任侠の一門に生まれながらも、ある事件を機に上方歌舞伎の名門・花井半二郎に引き取られ、歌舞伎の世界に飛び込む主人公・喜久雄の50年にわたる壮大な人生を描いた一代記です。喜久雄は、花井半二郎の息子である俊介と義兄弟のような絆で結ばれ、激動の芸道を共に歩んでいきます。才能か血縁か、芸に人生を捧げる役者たちの苦悩や歓喜、そして生き様が赤裸々に描かれています。

キャスト:

非常に豪華な顔ぶれが揃っています。

・吉沢亮:主人公・立花喜久雄(花井東一郎)役。任侠の家に生まれながら、歌舞伎の女形として稀代の才能を開花させていく役どころです。

・横浜流星:大垣俊介(花井半弥)役。上方歌舞伎の名門の御曹司として生まれ、喜久雄の親友でありライバルとして共に切磋琢磨します。

・渡辺謙:上方歌舞伎の名門の当主で看板役者、花井半二郎役。喜久雄の女形としての才能を見出し、引き取って育てます。

・高畑充希

・寺島しのぶ

・森七菜:歌舞伎役者・吾妻千五郎の娘で、喜久雄に恋をする彰子役。

・三浦貴大:歌舞伎の興行を手掛ける三友の社員、竹野役。

・見上愛

・黒川想矢

・越山敬達(少年時代の俊介役)

・永瀬正敏

・嶋田久作

・宮澤エマ

・田中泯

・中村鴈治郎

見どころ:

・吉沢亮さんの女形としての演技:
 歌舞伎の世界に飛び込み、女形として才能を開花させていく喜久雄を吉沢亮さんが渾身の演技で体現しています。その美しさと迫力は必見です。

・豪華キャスト陣の共演:
 吉沢亮さん、横浜流星さんをはじめ、渡辺謙さん、高畑充希さん、寺島しのぶさんなど、日本を代表する俳優陣が歌舞伎の世界を舞台にどのような化学反応を見せるのか注目です。

・李相日監督の演出:
 『悪人』『怒り』に続く吉田修一作品の映画化ということで、人間の深い感情や業をどのように描くのか、李監督の手腕に期待が高まります。

・壮大な人間ドラマ:
 喜久雄の50年にわたる人生を通して、芸の道に生きる人々の情熱、苦悩、そして師弟やライバルとの関係性が濃密に描かれています。

その他:

・上映時間は175分と長編ですが、その分、濃密な物語が展開されることが期待されます。

・PG12指定です。

・第78回カンヌ国際映画祭の併設部門である監督週間に選出され、現地では6分間のスタンディングオベーションを受けるなど、国内外で高い評価を得ています。

この映画は、歌舞伎という伝統芸能の世界を舞台に、人間の宿命と芸術への情熱を描いた、まさに「国宝」級のエンターテイメント作品と言えるでしょう。

以下、この映画を観終わってわたしの思ったことを書くけど、ネタバレとかあるかもしれません。その原因として、わたしにはなにがネタバレでなにがネタバレでないのか、よくわかっていない(あるいはそういうことは気にしない)という、いい加減さがあるとおもいます。なのでまだ観てない方にとっては、それ言わんといてほしかったわ、とかあるかもしれません。先にあやまっておきます。ごめんなさい。

物語を通して観終わって強く印象に残るのは、「芸に身を捧げる」と言えばなんとなくわかるような気がする、「自己消滅」というか「心頭滅却」というか、ぼくら日本人には懐かしいような今では目新しいような、そうした仏教的とも言える「生き方」のひとつが、今でも(今なお)有効な射程と強度をもってぼくらを揺さぶることができるんだ、という発見のような再確認のような思いだ。

スクリーン上で展開される演技の熱に、(声をこらえて)おんおんと泣かされながら、これだよこれ、と思いつつも、でもこんなんでいいの?という忸怩たる思いが交差する時間。

<「芸のためなら女房も泣かす」Geminiまとめ>

「芸のためなら女房も泣かす」というセリフは、日本の伝統芸能の世界でよく聞かれる言葉で、芸に対する並々ならぬ情熱や、それを追求するためにはあらゆる犠牲を厭わない覚悟を示すものです。

誰のどこでのセリフだったか

このセリフは、特定の個人が言ったとされる明確な出典があるわけではありません。しかし、落語家の世界で特に頻繁に語り継がれてきた言葉として知られています。落語家が芸の道を究めるために、家庭を顧みず、貧しい生活の中で稽古に打ち込む姿を象徴する言葉として使われてきました。

具体的には、昭和の落語黄金期を築いた名人たちの間でも、芸道に対する厳しさを表現する際に引用されたり、弟子への訓示として使われたりすることが多かったようです。

このセリフが成立するための社会背景

このセリフが生まれた、または広く共有された背景には、以下のような社会的な要素が深く関わっています。

・家父長制社会と女性の地位:

このセリフが生まれた昭和初期から中期にかけての日本では、家父長制が色濃く残っていました。男性が家の外で働き、女性は家庭を守るという性別役割分業が一般的で、夫が絶対的な存在でした。

女性は夫の決定に従うことが美徳とされ、夫の芸の道に対する理解や献身が求められました。そのため、夫が芸事に没頭するために妻が苦労することは、ある意味で「当然」と受け止められる社会的な土壌がありました。

・芸事の特殊性と経済的困窮:

落語や歌舞伎、浪曲といった伝統芸能の世界は、必ずしも安定した収入が保証されるものではありませんでした。特に若手や売れない芸人は、極貧の中で生活し、稽古に励むことが常でした。

芸事への投資(道具、衣装、師匠への謝礼など)は、生活費を圧迫することもしばしばありました。そのため、妻は夫の芸を支えるために、内職をしたり、質素な暮らしを強いられたりすることが多かったのです。

・芸道への絶対的価値観:

当時の日本では、「道」を究めること、特に芸道においては、世俗的な成功や幸福よりも高い価値が置かれる傾向がありました。芸の完成こそが至高の目標であり、そのためには私生活の犠牲もやむなし、という考え方が浸透していました。

師匠から弟子への厳しい指導も一般的で、芸のためには人間性をも超越した覚悟が求められる、という一種の精神論が共有されていました。

・「芸の肥やし」という考え方:

芸の世界では、人生経験や苦労が芸の深みにつながるという「芸の肥やし」という考え方があります。貧困や家庭内の軋轢も、芸人にとっては表現の源泉になりうると考えられました。妻を泣かせるほどの経験も、結果として芸の糧となる、というある種の開き直りや肯定的な解釈も含まれていました。

このセリフが意味すること

このセリフは、表面的な意味だけでなく、多層的な意味を含んでいます。

・芸に対する至高の情熱と覚悟:

何よりもまず、芸を磨き、高めることに対する並々ならぬ情熱と、それ以外のすべてを犠牲にしても構わないという強い覚悟を表します。芸が自分の人生のすべてであり、生きる意味そのものである、という究極の献身です。

・自己犠牲と他者への強要:

自分の芸のために、最も身近な存在である妻に苦労や悲しみを強いること、そしてそれをある意味で肯定するニュアンスを含みます。これは、自己犠牲の側面と、他者(特に妻)への犠牲の強要という、両義的な側面を持っています。

・伝統芸能の世界の厳しさの象徴:

伝統芸能の世界がいかに厳しく、並大抵の覚悟では生き残れない場所であるかを示唆しています。芸を究めるためには、世間の常識や倫理観すらも超越しなければならないという、ある種の非常識さや狂気をも内包しています。

・自己正当化と甘え:

一方で、「芸のためなら」という言葉は、家庭を顧みないことや、妻に苦労をかけることへの一種の自己正当化や、甘えの言葉として使われる側面もあります。芸を盾にして、私生活の無責任さを覆い隠す言い訳になる可能性もはらんでいます。

・時代と価値観の変遷:

現代においては、このセリフが持つ意味合いは大きく変わってきています。男女平等やワークライフバランスが重視される現代社会において、「芸のためなら女房も泣かす」という考え方は、DV(ドメスティックバイオレンス)やモラルハラスメントと受け取られかねない時代錯誤な価値観として批判の対象になる可能性もあります。

しかし、芸道の追求における根源的な情熱や苦悩を表す言葉として、あるいは過去の芸人たちの生き様を語る上での表現としては、今なお使われ続けることがあります。

まとめ

「芸のためなら女房も泣かす」というセリフは、日本の伝統芸能の世界における芸道への絶対的な献身と情熱、そしてその裏にある家父長制社会の負の側面や、経済的な困窮といった複雑な社会背景が織りなす言葉です。現代においてはその受け止め方も変化していますが、過去の芸人たちの生き様や、芸への途方もない執念を理解する上で、重要なキーワードの一つと言えるでしょう。

何年も前だけど、ぼくは「自分」というもののあり方について考えたことがあって、そこでは「自分」はいくつもの「自分」がスーパーのレシートのようにいくつも存在しているあり方をしていて、そうしたいくつもの「自分」が散らばってなくならないように「綴じ」られてある、というイメージをもっていた。

こうした「綴られてある自分」のイメージはたとえば、ドラマ『初恋の悪魔』(脚本:坂元裕二)の全体に通底して描かれている。

そのときこの「芸のためなら女房も泣かす」ような「自分」のあり方・規定の仕方は、本来綴られてあるべきいろいろな「自分」のレシートを、「芸に身を焼く自分」レシートだけ残して、その他の「自分」レシートをビリビリと破いて捨てるあり方に等しい。

そうした生き方を通じてのみ得られる「きれいやなあ…」の達観は、果たしてどんな意味を持つのだろう?

ぼくが思うのは、綴られてあるいろんな「自分」をうまくバランスさせることこそがひとつの達成ではないか、ということだ。

そのとき、ひとつだけを残して、その他の自分をすべて破り捨ててこそ得られる前記の「達観」は決して得られないのだろう。だが、いろいろな自分をバランスさせて得られる「達成」はその「達観」に決して引けを取るものではないのではないか?

あるときあの羽生善治さんが、「将棋のことを考えて考えて、ふと足元を見ると自分は崖の上に立っていた。これ以上将棋のことを考えると崖を踏み外し「狂気」という深淵に落ちてしまうと感じた。自分はそこから引き返すことにした」という内容のことをどこかで仰っていたと覚えている。

それともうひとつ。あるひとつのシステムがあるとするとき、そのシステム内存在とシステム外存在との関係性のもち方・あり方という問題が提起されていること。

歌舞伎という芸事では特にその「血筋」が重視されるようです。つまり歌舞伎演技関係者はほぼ「血縁関係」で囲い込まれ、それが歌舞伎システムの絶対の構成要素です。

<「血縁関係がシステム構成の根本になっている伝統」Geminiまとめ>

歌舞伎が特に顕著ですが、日本の多くの伝統芸能や武道、芸事には、家元制度や世襲制という形で、血縁関係がシステム構成の根本になっている伝統が見られます。

これは、単に技術や知識を伝えるだけでなく、その「家」が持つ格式や歴史、独自の芸風、そしてそれに伴う権威を継承していくという考え方に基づいています。

具体的には、以下のような芸事が挙げられます。

血縁関係がシステム構成の根本になっている芸事の例

1.能楽(能・狂言)

能楽も歌舞伎と同様に、家元制度が確立されており、特定の流派(例えば観世流、宝生流など)の芸は、その宗家(家元)を中心に代々継承されてきました。もちろん、弟子入りして学ぶこともできますが、重要な名跡や流派の根本的な芸は、血縁者(嫡男や養子)が継ぐことが一般的です。

2.日本舞踊

日本舞踊も、西川流、花柳流、藤間流など、数多くの流派が存在し、それぞれに家元がいます。これらの家元は、その流派の芸を代々継承し、弟子たちに教授する最高権威者です。多くの場合、家元の地位は血縁者によって受け継がれます。

3.茶道

表千家、裏千家、武者小路千家といった三千家をはじめ、多くの流派が存在します。これらの流派は、千利休の教えを受け継ぎ、代々家元がその精神と技法を伝えてきました。家元の地位は、基本的に血縁者(嫡男や養子)が継承します。

4.華道(いけばな)

池坊、草月流、小原流など、様々な流派がありますが、こちらも茶道と同様に家元制度が確立されており、各流派の伝統は家元によって代々受け継がれています。

5.香道

志野流、御家流などが知られていますが、これらも家元制度によって、その流儀が継承されています。

6.武道(一部の古流武術)

現代武道とは異なり、古流の柔術や剣術などには、流派の秘伝や免許皆伝の制度とともに、家元や宗家といった形で血縁による継承が行われているものもあります。

血縁継承の理由と背景

これらの伝統芸能・芸事において血縁関係が重視されるのは、以下のような理由が考えられます。

・芸の奥義の継承: 口伝や秘伝といった形でしか伝わらない、非常に繊細な技術や精神性があり、それを最も確実に継承できるのが血縁者であると考えられてきたため。

・家の名声と権威の維持: 特定の「家」がその芸の正統な継承者であるという権威を確立し、維持するため。

・経済的基盤の維持: 家元は、免状の発行や弟子の指導を通じて収入を得るため、家業として芸を継承していく必要があった。

・教育と育成: 幼い頃からその芸に触れ、徹底した教育を受けられる環境が、血縁者には与えられやすいため。

・伝統と格式の尊重: 長い歴史の中で培われた伝統や格式を守り、次世代に伝えていくという強い意識があるため。

もちろん、現代では血縁者以外にも門戸を開き、才能のある者が芸を継承していくケースも増えていますが、歌舞伎に代表されるように、多くの日本の伝統芸能において、血縁はシステム構成の重要な要素であり続けています。

そんな中で、物語の主となる、2代目花井半次郎は血縁関係のまるでない、たまたま見かけただけの立花喜久雄なる少年を引き取り、遂には彼に3代目花井半次郎の名跡を継がせることになります。

なんだかんだありますが、結局彼こそがその後「国宝」に指定される名人となる、というのが物語の流れです。

こうしてひとつの歌舞伎システムは血縁という不文律を乗り越え、外部から「才能」を取り込むことで新たなシステムとして働くようになります。

ここで、2代目花井半次郎とその息子花井半弥の父子が、ふたりとも糖尿病によって死亡するという設定はこのシステム変容のあり方を暗示してあまりあります。

「糖尿病」は、「血中のブドウ糖というエネルギー源をうまく使えなくなる」という疾病です。そしてその結果、全身の血管と神経がじわじわ傷ついていくのです。

これはあらゆるシステムのその機能が損なわれる有り様を表しています。

そしてこれも素晴らしいもうひとつのこと。

それが「女性」の描かれ方です。

主に3人の、いえ4人の女性が出てきます。彼女たちの行動によってこそ「芸のためなら女房も泣かす」男たちの思いが成り立っていく様がさりげなく、しかししたたかに描かれています。彼女たちの表情だけに注目してもう一度観たくなります。

まだまだ言ってしまいたいことはありますが、随分長くなりました。今回はここで終わります。