YouTubeを見ていると、最近というか、少し前ぐらいから、ぼく向けの音楽動画を集めた「ミックスリスト」なるものを作ってくれるようになっていることに気がついていた。
ときどき利用していたけど、大したことないな、つまり、そんなにいい曲を選んでくるわけじゃないな、と高をくくっていた。
ところがこの2、3日(だと思うけど)、なにが変わったのか、あるいは変わってないのか、知らんけど、ちょっとその内容の雰囲気が変わってきた。
知らない曲をたくさん出してくれるようになったことと、それを(知らんのに)聞いてみるとそれがすごくいい、ということが大変多くなってきた。
そうした気の利かせ方は、Apple Musicのそれで知っていて、いいな、とは思っていたが、YouTubeのそれはApple Musicのそれとはまた異なっていて、これがすごくいい感じだ。
そんな中から、ひとつご紹介する。
Masato Minami – Hateshinai Nagare ni Saku Mune Ippai no Ai
南正人 – 果てしない流れに咲く胸いっぱいの愛 (回帰線)
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今聴くとすごく貧しい音づくりのように感じる。まるで田舎の農村の手入れをされていない平屋のようで、昼間の明るい光の中でも、障子の開け放たれてあるその部屋の中はどこまでも暗く闇でしかないような、でもそんなところにも人が住んでいることはわかっていて、雑草が点々と伸びている縁側の土地には、立っていることが信じられない物干しが立っていて、そこに差し渡された竿には、穴の開いた手ぬぐいのような布が動くことを忘れた様子で干されてある。でもそんな家屋をそんな風に描写するのは今の視点でしかなく、思い返せば、ぼくがもう少し小さかった頃はどこもかしこも(ぼくのうちも)こんな風だったことを認める。そして今ではそんな風であったことを忘れているのに、そんな風である住まいこそがぼくらのほんとうの住まいであるはずだという確信めいた思いが、この曲を聞いているとふつふつと沸き起こるのだ。
あまりに貧しいので、見つめるべきことがらはひとつしかなく、それを愛と呼ぶか虚しさと呼ぶか悲しみと呼ぶかは人の自由だ。そのひとつのことがらを見つめながら、ぼくらは、ラララララララ、と唱和するしか術はない。そしてそのラララがぼくのこころにリズムと兆しとなんらかの予感だけを不親切にも与えてくれる。
この貧しさはまずに政治的に解決されるべきだが、それが実現したからといってそんな貧しさがなくなったのかと言えばそれは違う。ただ見えにくくなっただけで、見えにくくなった貧しさはより先鋭となり、個人だか社会だかのより深いところに移動したに過ぎないことは、今この曲を聴くことで明らかになる。
そんな曲だ。
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ここで言う貧しさが、物資や思いやなんらかのものの不足なのかと言えばそうではないと言うしかない。求めても求められない、それはこの世界のシステムなのか、それともこの世界に住むぼくらのこころのシステムなのか、そのどちらでもあるかもしれないが、ぼくには答えることができない。
南正人の唄う「愛」ほどに愛の豊穣と矛盾と冷酷を感じさせる唄はないのではないか?

