「タブロー(tableau)」とは、フランス語由来のことばで、「絵画」や「場面」を意味する。そうです。

同じ「タブロー」が、演劇なんかでは、舞台の上で登場人物たちがしかるべきところに配置され、静止した、あるいは静止しているように見える瞬間を指すことばとして使われる。そうです。

彫刻作品なんかは「タブロー」の立体版なのでしょう。

要するなら、「タブロー」はそこ(作品)から「時間性」(=動き)を排除したもの、と考えることができます。

例えば思い出や記憶なんかも「タブロー」なのかも。

映画やドラマなどの動画にしろ、頭の中で思い返すとき、ぼくの場合はまず「静止した」映像として思い出される気がします。動いている「動き」がそのまま思い出されることはないし、映像を反芻するときはその場面、場面がまさに「タブロー」として、「タブロー」の連続として再現されている。

実はどんな動画でも原理的にはパラパラ漫画と一緒で、「タブロー」を高速でパラパラしているだけで、それで動いて見える。そうした仕組みのどこにも「時間」など入っていないことがわかります。

つまり、ぼくたち人間の脳は「タブロー」として世界を見ている。
あるいは、「タブロー」として世界を作り出している。

だとすると、カルロ・ロヴェッリさんの著作『時間は存在しない』(2019、NHK出版)を思い出すまでもなく、「時間」概念の元が「動き」にあるのだとしたら、「時間」などはこの世界にはなく、あるのは、「タブロー」と「タブロー」をパラパラさせる「仕組み」だけということになりそうです。

「たぶろう」と書いて、読んでみて、カミさんの亡父「三郎」さんを思い出してしまった。