数学も物理も社会も芸術も、あれもこれも、「あれ」と「これ」との関係性をその主題としている。



落語だってそうだ。

落語をやる、その口演を聴く。話者と聴者との関係性をなんとか「形」にしたいからこそ、稽古をして演じる。ぼくと彼ら彼女らとの間に、どんな関係性を形作ることができるだろうか?そんな想像をしないでやる稽古はないし、口演もない。

『うどん屋』という噺がある。

主要な登場人物は3人。舞台回しの装置としての「うどん屋」、そこにやってくる「酔っ払い」、そして最後にうどんをすする「風邪っ引き」の人物。

前半の見せ場は、酔っぱらいの語る、彼がかつて可愛がっていた少女の結婚式に出席した話。ここでは酔っ払いの思いの丈が、彼と成長した少女との関係性として語られるのだが、その彼の思いの丈をめぐる、彼とうどん屋との関係性の作り方がひとつの聴きどころ。どこまでいってもうまい関係性にならないのが面白い。

後半は風邪を引いた人物(たぶん女性)がうどんをすすってみせるところの、彼女とうどんとの関係性の作り方。これぞスキルフルな見せ場。そして最後に彼女とうどん屋の関係性、やはりうどん屋の思ったような関係性にならない、というのがこの噺のオチとなる。

酔っ払いの語る、彼と少女とのすれ違い、意外性、でも最後には感激と喜びの大団円に至る経緯。だが彼の感激と喜びはうどん屋には伝わらない。それが元でうどん屋の「うどんを一杯食べて欲しい」という思いも成就しない。

登場人物の3人はみな、それぞれの自分の思いをもってうどん屋で会する。酔っ払いと風邪っ引きは自身のもつ関係性(酔っぱらいは少女との、風邪っ引きはうどんとの)はうまくいくのだが、うどん屋が想定する彼や彼女との関係性は結局うまく結ばれない。

その「うまくいかなさ」が、この噺のオチでもあり、魅力でもある。

「あれ」と「これ」の関係性は、それがどのようなものであれ、言葉やあるいは他のなにかのキャッチボールとして作られる。

キャッチボールというのは、ボールを投げるだけでは成立しない。自分が投げて相手に渡ったボールを、今度は相手が自分に投げてくる、そのボールをキャッチすることで成立する。

キャッチボールができるだけの関係性は、どのくらい時間をかければ作ることができるのだろうか?

すべての事象はこの疑問に応える形をとっているように思える。


《参考from「偽日記@はてなブログ 2000-01-05」》