魚釣りは偉大だ。

まず父親が魚釣りが好きだった。
釣り竿やリールやおもりや針や糸や、押入れにいっぱい入れ持っていた。
ただなんらかの釣果があったような記憶はない。

ぼくは父親の好きな魚釣りに特になんの思いももっていなかった。ほぼ魚釣りとは無縁に暮らしてきた。そんなぼくに、父親は何も言わなかった。

ただ

「魚釣りはのんびり屋には向かん」
「え?そうなの?糸が引かれるまでのんびり待つような、そんなのんびり屋でないとできないんじゃないの?」
「そんなことじゃ魚は釣れん。糸が動かないのはなぜか?餌が悪いんじゃないのか?時間か?場所か?と絶えず考えるようなせっかちでないと魚は釣れん」
「へええ」
「じゃけえ、おまえには向かん」

という会話だけは今でも思い出す。

それから遊びだしてからTさんのことを雑誌で知り、Tさんがぼくの大学の先輩で、中退の先輩で、遊びの先輩で、なにもかも先輩で、当時のTさんの根城のお店まで出かけて、Tさんの姿を垣間見るだけでなんだか納得して、そんなTさんはむかし船乗りになりたかったんだと知り、そうか、魚釣り、いいな、と真似で思い、今でもその真似は続いている。

もっともTさんの言う船乗りとぼくの思う魚釣りではまったくその主旨は違うかもしれないが、ぼくの中では船乗りは魚釣る人だとばかり思いなしている。

しかし考えてみれば、Tさんがやっておられた本業としての遊びは、魚釣りの陸バージョンと見なすことができる。どこの店が出しているか、どの機種を打つか、いつまでねばるか、そんな要素は魚釣りとほぼ同型なのではないか。

そして今はマーケティングだ。

あるものを売りたい。ターゲットは誰だ?どんな特性をもった人に一番刺さるのか、どの地域で売れているのか、その人はなんのためにそれを買うのだ、などなどの相手のことを知ること、それを知ったら、どうやってその人にこの商品を知ってもらうか、欲しいと思ってもらえるか、そのためにはどんな手を打つべきか?

言ってみればこれまた魚釣りと同型の構造をもっている。

世の商売と言われるものはすべてこれに尽きるのではないか。

ぼくがTさんを真似して思う魚釣りのいいところは、海には誰でも出ていくことができること、どこにいつ出かけようとまったく自由だということ、どれだけ魚を獲ろうとぜんぶ「ただ」であること、にある。

その代わりに、サラリーマンとかと違って、何の保証もない。
こわいけど、だけどいい。

そういえば、むかし遊んでて、台の前でヒマなのでその間に英語の勉強でもしようとある本の英文を全部覚えたことがある。今ではもうすっかり忘れたけど。

その本は Ernest Hemingway の “The Old Man and the Sea” だったなあ。