量子力学がもたらすところの知見のようなものが、少しずつ少しずつ、広く深く行き渡っていっているような気がする。
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ぼく(ら)は、その脳の性質なのか、ものごとを大雑把な形で、できるだけデータ量が少なくなるようにしてイメージしてしまう質があるように思う。
そうした「質」が、いいことなのかそうでもないことなのか。
だからぼく(ら)は、いかにも偏見に満ちた目で世界を見ている。
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ところが計算によると、計算すればするほど、この世界はそうしたぼく(ら)の偏見とは異なる世界としてあるらしい。その典型が量子力学を通して見える世界像だ。
それを(ぼくなりに)解して言えば、「この世界にあるものって、あれであるしこれでもあるんだよね」ということになる。
もっともこの見方はあくまでぼく(ら)が世界を見るときの見方であって、まったく異なった知能からすると全然ちゃうよ、ということになるのかもしれない。
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マルドロールちゃんさんの『キャラクターにとって言語とは何か』の中にある、かろうじて分かることばに、正確じゃないけど、
そこにいることの「喜び」とそこにいないことの「不安」、それを同時に触発する存在者として、キャラクターはある。
ということがあって、これを読んですぐにぼくが思ったのは、
わかることの「喜び」とわからないことの「不安」を同時に併せ持つ存在としてぼく(ら)はある。
ということだし、だとすれば、ありとあらゆることがらが、こうした相反する事態の「併せ持ち」として「ある」という予見が起ち上がってくる。
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さて。
では行ってきます!
《参考from「偽日記@はてなブログ 2025-01-27」》