考えてみればぼくはなんでも「原理」から考える質なんだと思う。
(考えるって言うと大げさだけどw)

そう言えば学生時代、「原理運動」なんて立て看が構内のあちらこちらに立っていたように覚えている。「原理主義」とか書いてあるガリ版印刷の摺物も気前よくバラ撒かれていた。当時は何の興味もなかったし、今もまったく知らないけれど、この「原理」はぼくの言う「原理」と同じなのかしら?

ぼくの思う「原理」の意味をジピティ(ChatGPTのこと)4oに聞いてみた。

「原理(げんり)」とは、物事が成り立つ基本的な法則や根本的な理論を指します。 例えば、「てこの原理」や「民主主義の原理」のように、特定の事象や制度の基本的な仕組みや法則を表現する際に用いられます。

哲学においては、他のものを規定するが、それ自体は他に依存しない根本的、根源的なものを指します。 つまり、他の事象や概念の基礎となる普遍的な真理や法則を意味します。

このように、「原理」は、さまざまな分野で物事の基本的な仕組みや法則を説明する際に用いられる重要な概念です。

この3つの文の2つ目がぼくの言いたい「原理」にぴったしカンカンとくる。

「それ自体は他に依存しない」

という在り方。

人間は誰もがこの意味での「原理」なんだと思う。
思いたい。

だから、例えば、ぼくの持っている100円とあなたの持っている100円では、その意味というか価値というか、それがまったく異なっている。

50mを駆け抜けるのに要した、ぼくの6.9秒と、あなたの8.4秒では、その意味というか価値というか、それがまったく異なっている。

素敵な女性を前にしたときの、ぼくの微笑みと、あなたの微笑みでは、その意味というか価値というか、それがまったく異なっている。

だけどぼくの「原理」とあなたの「原理」がまったく異なっているわけではなく、その一部はおそらく共有可能なのだ。

そこから、なにかを指標にぼくとあなたが「競う」ことには、「遊び」として以上の意味はない、という事実が導き出される。

だとしたら、「遊び」とはなんというステキなことなんだろう!

問:昔「遊」という雑誌があったと思います。この雑誌「遊」について教えてください。

4o:『遊(ゆう)』は、1971年に松岡正剛氏が編集長として創刊した雑誌で、工作舎から刊行されました。 

この雑誌は、自然科学、人文科学、芸術など多岐にわたる分野を融合し、独自の視点で特集を組むことで知られていました。

創刊当初から、デザイナーの杉浦康平氏が表紙デザインや編集に携わり、その斬新なビジュアルと内容の深さで多くの読者に影響を与えました。 

『遊』は、1971年から1982年まで刊行され、全3期にわたり発行されました。 

その後、単行本の出版に重点を移し、雑誌としての刊行は終了しました。

『遊』は、当時の日本のアート、思想、メディア、デザインに多大な影響を与えた伝説的な雑誌として評価されています。 

現在でも、そのバックナンバーは一部の書店やオンラインで入手可能ですが、希少価値が高くなっています。