出来心より

みかたのみかた

高校生のとき、メンデレーエフの周期表をぼんやりみていて、そこに質量数(だったかな?)というのが出ているので、なんとなくその元素の原子核を構成している陽子と中性子の数から算出されるところの質量数を計算して、元素表のそれと比較したみたことがあった。

するとその数値が微妙にちがうものになっていることがわかった。核子の数の合計の数値よりも、元素表にある数値の方がたいがいちょっとだけ少ないのだ。なんでだろう?と思って化学の授業のとき、先生に訊いてみた。

先生は、「それは質量欠損と言いまして、その少ない分だけの質量がエネルギーに変換され、核子同士の結合に使われているのです」みたいなことを教えてくれた。例の有名な「E=mc2」にも言及された。

ぼくはなにかで、「E=mc2」という等式があることは知ってはいたけど、それがこんなところに出てくるとは思ってもいなかったので、少しうれしかった。

エネルギーと質量がある意味「等しい」というのはあらゆる発見の中でも大発見だと思う。それは、この発見が単なる技術的な知見にとどまらず、ぼくたちのもののみかたを変えてくれるだけのパワーをもっているからだ。

そもそも、なにかとなにかがある意味「等しい」と言えてしまうのはなぜか?

ドーナツとうどんが、ともに元はと言えば同じ小麦粉であるように、ものとものの「違い」って、実はそのみかたが違うだけで、もともと同じものだからじゃないの?

だとするとですよ、面白いのは、ものとものを同じものだとみなせる「等式」を見つけ出すことだなあ。次々とそんな等式を見つけ出すことで、今ある争いのほとんどはなくなる可能性がありまっせ。